カルト被害相談窓口 心の相談室りんどうのブログ

 

宗教辞めたら地獄に堕ちる?!〜 功徳と罰

 

教団の教えに背いたり、教えが信じられなくなっても罰などあたりません。

 

教団をやめたとしても、死後無間地獄に堕ちたりはしません。

 

それをこれから解説していきます。

 

功徳と罰のレトリック

 

ー信仰を深めれば功徳があるー

 

ほとんどの宗教団体が、「自分たちの宗教を信じれば、功徳(ご利益)がある」と宣伝しています。そういった団体の機関誌には信者の「体験談」がよく載せられれていますね。

 

曰く

 

「我々の教えを信仰していたらガンが治った.。」「アトピーが治った。」

 

「会社で抜擢され、昇格した。会社で表彰された。」

 

「夫婦の不和がなくなり、家庭が円満になった」

 

「我々の教えを信じていれば、大地震や洪水、土砂崩れが起こったとしても死なない。」

 

高額な献金、標準医療の否定、勧誘の強要などのアンモラルな行為がない限り、功徳を謳いあげるだけであれば問題は少ないと思います。

 

しかし、数多くの教団で、(ひとつやふたつの教団ではない!)「功徳」と同時に、信仰をやめた場合の「罰」が強調されています。信じることによって得る「功徳」と、信じられないことに対する「罰」は表裏のワンセットになっています。

 

曰く

 

・我々の信仰する宗教以外のものに触れたりすると(神社の鳥居をくぐったり、お寺に行ったり、葬式に出たりすると)罰が当たる

 

・我々の信仰する教え以外の宗教を信仰している家は、家族に病人が絶えなかったり、死ぬ人が続く。

 

・我々の教団を脱会すると、家族が事故にあう。障害者が生まれたり、知恵おくれの子どもが生まれる。発狂するものもいる。

 

・教学に疑問を持ったり、勧誘をサボったりすると、罰があたる。

 

・自分たちの教団以外のものに触れたりすると(神社の鳥居、お寺や教会、他宗教の葬式に出たりすると)罰が当たる。

 

・もしも教団をやめてしまったら無間地獄に堕ちる・・・

 

どの教団でも、みんなおんなじです。罰があたるとか、地獄に堕ちるとか、みんな同じような事を言って信者を脅しています。あなたの教団が特別、ということではないのです。

 

こうした、「罰があたる」という教学は一般にはにわかには信じがたいものがあると思います。しかし、こうした教義をもつ教団の信者の方たちには大きなリアリティがあり、日常生活を送るうえで、不自由な障害となることがあります。

 

たとえば・・・・

 

・修学旅行で京都に行くのだけれど、神社仏閣には怖くて行けない。みんなと一緒に楽しみたいのに。

 

・勤め先のオフィスに神棚が飾ってある。怖くて座っておれない・・・仕事にならない・・・・

 

・友達が今度、教会で結婚式をあげるのだけれど、出席してお祝いしてあげられない。

 

・大好きだったおばあちゃんが亡くなって、葬式に行きたいのだけれど怖くて行けない。お弔いをしてあげられない。

 

信仰によって植え付けられた恐怖心を抱えて生きていくことがどれだけ苦しいことか・・・

 

どうして、あなたがこんなバカげたことを信じるはめになってしまったのか?

 

それをこれから解説していきます。

 

話の要点
「地獄に堕ちる」という大きなウソを信じ込まるためには、「功徳があった」とか「罰があたった」とかいう小さなウソを信じ込ませればいい。

 

「功徳」のあれこれ

 

実際にある教団信者たちから「功徳があった」と報告されているものを紹介します。

 

・バーゲンに行って、お気に入りの洋服を手に入れた。

 

・駅から教団事務所まで来るのに、横断歩道が一度も信号が赤にならずに来ることができた。

 

・お父さんが会社の帰りにケーキを買ってきてくれた。

 

・クラス替えをしたら、いじめっ子と違うクラスになれた。

 

・事故で入院した時、お世話になった看護婦さんが美人だった。

 

・入信した日の家への帰り道、10円を拾った。

 

・いままでしつこく言い寄ってきた男性が寄り付かなくなった。

 

怪しげな教団に入信したりしたら、しつこく言い寄ってきた男だって怖がって近寄らなくなるのも当然と思うのですが・・・・・

 

おみやげにケーキを買ってもらったり、10円拾ったりというのも、日常生活の中でわたしたちがよく経験していることですね。

 

いわゆる功徳といわれるものは、実は教団に入信しなかったとしても、経験できたであろう日常的なできごとがほとんどなのです。

 

それでは、なぜ日常的な出来事を功徳と感じてしまうのか?

 

宗教団体に入信した時、人はどんな気持でいるでしょう。

 

「今までの辛い人生を送ってきたが、これで救われる」

 

「信仰をもったのだから、これから素晴らしい人生を送ることができる」

 

大勢の先輩の信者たちから拍手で迎えられ、これからの信仰生活に胸がいっぱいになっている時は、先輩から教えてもらった「教団の教え」を大切に守もろうとしがちです。

 

そんな時に先輩の信者から「功徳があるよ」と囁かれます。

 

そう言われると、どうしても、期待しますよね。
「どんないいことが起こるのか」ちょっとワクワクしてきます。

 

このような心理状態にあると、「日常のありふれたできごと=宗教をはじめなくとも経験できたであろうできごと」も信仰することによってもたらされた功徳として認識してしまうのです。

 

その理由は「教団の教義がほんとうの事だ」と自分自身が信じていたいからです。

 

功徳が実際にあれば、教えてもらった教義が「ほんとうの事」であることを信じることができます。教義が「ほんとうの事」であれば、それを信じていけば自分は幸せになれるわけですから。

 

さて、あなたは入信してすぐの段階で、ニセの「功徳」を経験してしまい、「功徳がある」という小さなウソをひとつ信じてしまったのです。

 

気の早い方はこの段階で「教団の言うことはすべて本物だ」と信じてしまうこととなります。

 

今までの解説がわかりづらかった方は下のコラムも参考にしてください。

 

『般若心経』の功徳

 

「隣のおじいちゃんは、本当に信仰深い人なんです。朝夕、熱心に『般若心経』を読んでます。それに『般若心経』の写経もやっています。

 

そのおじいちゃんが、先日、交通事故に遭って大怪我をしました。おじいちゃんはただ歩いていただけなのです。向うの車が悪いのです。それで、先生、般若心経には功徳がないのですか?『般若心経に功徳があるのであれば、なぜおじいちゃんは大怪我をしたのですか?」

 

こんな質問をうけたある仏教学者の方がいたそうです。困っていた学者の先生に、ある高僧がこのように答えたそうです。

 

「そういう質問には、『 『般若心経』には大きな功徳がある。そのおじいちゃんは、『般若心経』を読んでいたから大怪我で済んだ。そうでなければ死んでいたよ』と答えればいいんだ」

 

学者の先生はしかしまだ納得していません。

 

「だが、もしもそのおじいちゃんが交通事故で死んでしまったと言われたら、どのように答えればよいのですか?」

 

高僧は答えます。

 

「そのときはおじいちゃんは即死したのか、それとも事故のあとしばらく生きていたのか?を訊けばいいんです。それで『しばらく生きていた』と言われれば、『それ見ろ、功徳はあったじやないか!そのおじいちゃんは『般若心経のおかげでしばらく生かしてもらえた』と言えばいいのです。」

 

「なるほど、では『即死した』と言われたらどう答えればよいのですか?」

 

高僧は答えます。

 

「その場合は、『死ぬまでのあいだ、苦しみ、痛みに耐えなければならないところを、『般若心経』のおかげでコロッと死なせてもらえた。大いに功徳があった』と答えればいいのです」

 

高僧の言葉に、学者の先生はおおいに納得しました。

 

*「因果にこだわるな」 ひろさちや著 講談社136Pから139Pまでを一部を変更し引用させていただきました。この「因果にこだわるな」は非常におもしろい本です。ご一読をおすすめします。

 

罰〜自分で実現する予言

 

話の要点

 

「自分で実現する予言」という言葉があります。

 

「自分はミスをするのではないか?」「何か悪いことがおきるのではないか?」何らかの「怖れ」や「不安」を持って行動していると、実際にミスをしたりトラブルにあったりする確率があがってしまうのです。

 

 

「信仰活動をサボったり、休んだりすると罰があたる」

 

「脱会すれば無間地獄に堕ちる」

 

実際に、「信仰活動をサボった」ら、「自分に罰があたった」と感じる事できごとを経験する人は多いです。

 

そうなったら、怖さを感じてしまいますね。

 

「やはり教団の教えは本当だった」と。

 

「罰があたった」というできごとをひとつひとつ検証していくと、ほとんどのケースは単なる不注意だったり、自業自得のできごとだったりします。

 

それを、なぜ「罰があたった」と感じてしまうのか?

 

ここではそれを解説いきます。

 

信仰生活を続けていると、教団の教えに疑問をもってしまったり、活動が不活発になることがあります。

 

「毎朝、毎晩やっているお祈りを今日はサボってしまった・・・」

 

「自分の教団の活動に疑問を感じてしまって、いつもの集会に行っていない・・・」

 

「思い切って退会届を出してみた・・・・」

 

そんなとき、心にもくもくと不安が湧いてきます。

 

「もしかしたら罰があたるのではないか?」

 

信心のおかげで「功徳がありました。その「功徳」があったから「教団の教えは本物だ!」と感じて信者になって活動してきたわけです。功徳が実際にあったのであれば、「罰」も実際にあるのかもしれない。

 

この「罰が当たるのではないか?」という不安が「『罰が当たった』」と感じるできごと」に遭遇する原因なのです。

 

 

「自分で実現する予言」という言葉があります。「自分はミスをするのではないか?」「何か悪いことがおきるのではないか?」何らかの「怖れ」や「不安」を持って行動していると、実際にミスをしたりトラブルにあったりする確率があがるそうです。

 

 

「罰があたるのではないか」という不安にかられている時に、何かミスをしたり、いやな目にあうと、「これは信心がゆらいで罰があたったのだ」と解釈し、自分を納得させようとする力が無意識のうちにはたらきます。

 

なぜなら「ここで一回罰があたったことにすれば、もうこれ以上罰があたることはない。恐ろしいことが起こることはない」からです。

 

「ここで罰があたった」ことにすれば、「罰があたるのではないか」という怖れと不安からひとまずは解放されるからです。

 

実際に罰があたった、と報告されているものを紹介します。

 

・「職人をしているが、大切な商売道具をなくした」

 

・大事にしている手帳にコーヒーをこぼしてしまった。

 

・「コンビニでレジを打っていたらミスしてしまい、来店したお客さんから怒鳴られた」

 

・「勧誘を断った同級生が部活中にケガをした」

 

 

こうした出来事は信仰をもっていなかったとしても経験しうることです。しかし、一度、「罰があたった」と感じてしまうと、「罰が当たる」ということを本気で信じてしまうことがあります。

 

ここで二つ目の小さなウソを信じてしまうこととなります。小さなウソも二つ目を信じてしまうと、教団の言うことがすべて本当のことのように感じてしまうのです。(一つめのウソは「功徳があった」という思い込みのことです)

 

二度あることは三度ある、と感じてしまう。

 

日常的な出来事である些細な失敗を経験することで、教団に疑問を持ったり、教団を辞めたりすることに対する「怖れ」や「不安」を手放すことができなくなってしまうのです。

 

話の要点

 

もうひとつ、「怖れ」や「不安」を手放せない理由は集団からの同調圧力の影響もあります。

 

いつも同じグループ内で一緒に行動し、グループ外の人たちとの交流が制限されてくると、どんなに荒唐無稽な話であってもグループ内での話が「本当のこと」に思えてきます。

 

自分の周囲にいる人たちが、皆で同じことを言いあっていると、知らず知らずのうちに自分も強い影響をうけ、皆と同じ話をするようになります。

 

グループ外の人たちとの交流が制限され、自分の意見を比較検証する機会をもてなければ、グループ内での言説を鵜呑みにするしかありません。

 

こうした些細なできごとではなく、ご自身や家族の方が病気になってしまったり、事故を経験してしまったりという方もおられると思います。しかし、これは、非常に不幸な出来事が偶然起こってしまったと考えていただきたいのです。なぜならあなたの教団を辞めた人すべてが不幸になっているわけではない、という事実があるからです。

 

「自分で実現する予言」のほかに、「誰でも的中する予言」というのもあります。いくつか紹介しましょう。

 

「大地震が来る」

 

「将来、病気になる」

 

「ガンになる」

 

巨大地震の発生の可能性は政府も認めていることですし、発生の確率は30年間で60%から70%と言われています。これは日本国民周知の事実であって、「巨大地震が来る」などと予言してみせたところでありがたくもなんともありません。また病気にならない人はいません。風邪やら食べ過ぎなど、誰でも経験することです。またガンは三大疾病とも言われていて、誰でも老齢化すればガンになるリスクはかなりの確率で上がります。一説によると70歳を過ぎると70%の人にガン細胞ができるそうです。

 

「罰があたる」とか「地獄に堕ちる」ことを信じてしまった理由

 

話の要点

 

「地獄に堕ちる」という大きなウソを信じ込まるためには、「功徳があった」とか「罰があたった」とかいう小さなウソを信じ込ませればいい。

 

そう、教団で活動する中で、あなたは功徳があった(と感じる)小さなウソと罰があたった(と感じる)小さなウソを何回か経験してしまったのです。

 

加えて、「近いうちに地震がおこる」などという教団幹部の「誰でも的中する予言」も小さなウソにリアリティを与えていたのでしょう。

 

功徳があって罰が本当に実現してしまったのであれば、「脱会すれば、死後無間地獄に堕ちる」ということも本当なのではないか、と考えてしまうのです。

 

自分が実際に何かを体験してしまえば、その体験は絶対的なものだと思いがちです。

 

でもよくよく考えてみれば、「功徳」とか「罰」と思い込んでいたものは、仮に教団に入信していなくとも体験できたものばかりではないでしょうか?

 

罰が当たったと思い込むと恐怖感を感じます。恐怖感を感じると、安心したいがため教団での活動に熱心に取り組んだりします。活動に熱心に取り組んでいると、それまで感じていた恐怖感が薄らいできたりするんですね。恐怖心が薄らぐのは、ただ単に時間が経過したからにすぎないのですが、これを「教団に戻って熱心に活動したからだ」というふうに錯覚してしまいます。この錯覚が教団への信仰を強化します。

 

最後に

 

信仰をあきらめたり、教団を脱会したりすれば、罰があたる。地獄に堕ちる。

 

こんなものは嘘っぱちです。

 

このような怖れをもちながら日々の生活を送っていて、辛くなりませんか?

 

もう、怖れを手放しでもいいのではないでしょうか?

 

 

「この筆者はは宗教の凄さと怖さを知らない」とか

 

「信心が足りないからこんな事を書いている」とか

 

「もっと勉強を続けていけばわかる」とか思った方へ。

 

たぶんあなたにとって今の教団はとても大切なものなのでしょう。

 

今のあなたにはこの文章は早すぎるのだと思います。

 

大切なものを守ろうとするとき、人は無意識のうちに「大切なものを攻撃する情報」をシャットアウトしてしまうのです。

 

 

反対にちょっとでも心にひっかかったものがあった方は・・・

 

今いる教団について外部の情報を集めて検証してみましょう。

 

自分の教団が社会的にどのような評価をうけているのかを。

 

 

そして、今のまま教団を続けることが他の誰かの幸せにつながっているのかを・・・

 

自分自身が救われているのか

 

自分自身が幸せなのかを。