カルトメンバーの家族の葛藤、苦しさ
このページは多くのカルトメンバー家族の方が抱える苦しさについてまとめてあります。
カルトメンバーの具体的な救出の方法はカルトメンバーへの脱会説得の手法をご覧ください。
入信したのは親の責任?
「今までの育て方に問題があったのだろうか?」
「親にも責任があるのだろうか?」
子供さんがカルト宗教にに入信したことがわかったとき、多くの親御さんは悩み、傷つきます。
勧誘してしまった友人の親御さんから苦情が入ったり、学校から呼び出しをうけて注意をうけてしまうこと自体が非常に大変なことですし、かと言って子供を問いただせば、反省をするどころか、逆ギレしてしまう・・・
心ない親戚や近隣の人から、「親の育て方が悪かった」などと言われてしまうこともありますね。
親御さんが無力感や自責感に捉われてしまうのも無理のないことだと思います。
私は多数「子供がカルト信者になっている」親御さんにお会いしてきました。
また、カルト脱会者の若者とも接してきました。
実際にお話しをさせていただいて感じるのですが、みなさん「いい家族」だと思います。本当に。
何か問題のある家庭の子供がカルトに入信するということではありません。
またカルトに入信する人が何か性格的に問題があったり、「甘やかされてきた」とか「善悪の判断がつかない」ということではないように思います。
カルトメンバーになる人は、むしろ家族の形や社会の在り方に対しての理想像がはっきりしていて、なおかつ正義感が強い人が多いのです。
カルトとは人の理想や善意をコントロールし捻じ曲げていく存在です。
逆に言えば「理想」や「善意」をもたない人はカルトなどに入ったりはしません。
カルトとの出会いは交通事故にあうようなものです。
入信が「親御さんの育て方が間違っていた」、とか「親御さんの責任」とか単純に言える話ではないのです。
むしろ、今までの育て方は非常にうまくいっていたのだと思います。
なぜなら、良好な環境の中で育っていなければ、人は「理想」や「正義感」をもつことはできないからです。
過剰な自責感はこれからの対応を鈍らせてしまいます。
大丈夫、子供さんはきっと帰ってきます。
今まで築き上げた親子の信頼関係は、カルトのマインドコントロールよりもずっと強いのです。
「わかってもらえない」辛さ
大切な家族がカルト教団に入信してしまったときの辛さ、しんどさはなかなか人に伝えにくいものがあると思います。
「この信仰に従わなければ、家族はみな無限地獄に堕ちる」
「家族が反対するのは、悪魔が取りついたからだ」
「教団につきまとう悪評や批判記事は、謀略だ、我々は迫害されている」
教団について批判をすると、目つきが変わり、早口でまくしたて、同じことをなんども繰り返す。まるでテープレコーダーを繰り返し聞いているかのように・・・・
「ああいえば、こう言う」といった感じで、こちらが話したことは受け止めたりせず、「理屈のための理屈」を延々と話し続ける・・・
しかしながら、カルト問題に対応できる相談機関はなかなかありません。
多くの場合、最寄の地方公共団体の「市民相談コーナー」や警察署の「困りごと相談所」などを訪問されると思いますが、ほとんどの場合、「家族でよく話し合ってください」といった一般的なアドバイスしか得られなのではないえしょうか。
『理解できないもの』を理解する
「やめさせることはできない、しかしやめることはできる」
長い年月をカルト問題の相談に費やしてきた、ある牧師さんの言葉です。
そう、今あなたの子供さんが入信している宗教を、強制的に説得したり、力づくで納得させることはできません。そもそも、人が大切にしている思いや信仰を、他人がコントロールしたり、強制的にやめさせることなどできないのだと思います。
結局のところ「信仰を続けるか、否か」の決断は本人にまかせるしかありません。
私たちにできることは、入信している本人と対話を重ねながら、本人の信仰を揺さぶりながら、本人の気付きを促していくことです。それには時間がかかります。しかし、少しづつでも対話を積み上げれば、確実に成果はでてきます。
「このまま続けていても大丈夫なんだろうか?」
「自分は本当に救われているんだろうか?」
一見、信仰に夢中になっているように見えて、カルトメンバーの内面は揺れ動いていることは多いのです。
カルトメンバーとの対話を続けるにはどうすればいいのでしょう?
そのためには、相手の話や言い分をよく聞くことだと思います。
ところが、これが難しい。
面白くもない教団の教学を延々と聞かされること自体が相当なストレスを伴います。
もう何年も昔の些細なできごとの揚げ足をとって、「親の育て方が悪い」なんて大声をだされたり・・・
何よりもカルトメンバーの「ちょっと優越感に浸った話し方」には終始イライラさせられてしまいますしね。
カルト信者との対話はとにかく我慢し忍耐を強いられることのほうが多いかもしれません。
しかしながらこうした忍耐なくしてはカルト信者と信頼関係を結ぶことなどできません。
もしも一発ガーンと鉄拳をくらわせて、目をさまさせることができたら・・・
もしも論理的に相手を論駁し反省させることができたら・・・
今まで経験してきた数多くの相談の中で、粘り強く、あきらめることなく対話を継続していく親御さんの姿を私はたくさん見てきました。
頭のさがる思いがします。
意地と未練
ものごとの善悪を判断したり、是非を論じたりするときに、影響するものってなんでしょう?
客観的なデーターや、事実関係などが優先されればいいのでしょうが、人は物事を判断するのにしばしば「理性」よりも「感情」を優先させてしまいます。
「意地」と「未練」
カルト宗教を続けていくのか?それともやめるのか?
その判断もいわゆる「理性」で判断するよりも「意地」とか「メンツ」であるとか、「未練」とかいった感情のほうが優先されていることもあるのです。
「理屈では間違っていることをしているのはわかっている。でも・・・」といった具合です。
たとえば「意地」。
「親の反対に負けずに頑張ってきたのだから、絶対に親には負けられないない」
「親のいうことだけは聞かない、従えない」
「ここまで頑張ってきたのだから、いまさらここでやめられない」
「ここでやめてしまったら、今まで教団で修業したり、やってきたことが無駄になる」
どんなことがあっても、絶対に自分の間違いを認めようとしない人」は別にカルトの人でなくとも世間にはたくさんいますよね。
次に「未練」。
「自分の学んでいる教学が間違っていることもわかった。
教団が社会的に問題をおこしていることもわかった。
でも、今教団をやめたら、自分は夢も、目標も、なくなってしまう。
今まで教団で一緒に頑張ってきた仲間を失ってしまう
教団で体験した輝かしい日々を失ってしまう」
このような思いだと思います。
恋人と別れる寸前の心模様を考えていただければ、想像しやすいと思います。
「理屈」をもって人を論破することはたやすいことです。
しかし「意地」とか「未練」とかいう感情を扱うことは非常に難しい。
人は「わかっちゃいるけどやめられない」のです。
本人のもっている「意地」をどうゆるめるか?
「未練」を手放してもらえるか?
思うに「未練」を手放すのは難しい。
これは本人にまかせる部分が大きいところですし、運やタイミングに左右されるこtが多いと思います。
しかし、「意地」を緩める努力は親御さんとしてはしてもいいと思います。
それはこちらが「隙」を見せるか、「相手の言い分を肯定するか」でうまくいくかもしれません。
元メンバーたちの声
カルトメンバーの「意地」をどう緩めるか?
これにはまず、家族のほうから一歩譲って歩み寄るほかはないように思います。
まず、「相手の気持ちを理解しようとすること」「相手の信じていること」を理解しようとする努力が必要なのです。
ここに、ある教団のメンバーからのアンケート調査があります。
教団を脱会するとき、両親と話し合うときに「ホッと救われた言葉」をご紹介します。
元メンバーの生の声に耳を傾けてみましょう。
「今すぐ結論を出さなくてもいいんだよ。自分でどうするか決めればいい」
「睡眠時間を削ってやってきたことだ。反対されるのは辛いだろう」
「こういうことがなければ家族の問題もわからなかったんだから」
「おまえは一生懸命だけれど」と自分のことは常に評価してくれた
「自分で考え、自分で判断してよい」と言われた。
次に脱会するにあたり、効果があったと思う家族の対応にを紹介します。
「『一緒に学ばせてほしい。最後まで一緒に勉強して、あとは自分で結論をだせばいい。よく考えたうえでの結論ならそれを尊重する」と言われたこと。」
「じっくりと親子関係、家族間のことについて話し合うことができたこと」
「できるだけ本人を刺激するような言葉、行動を行わないように忍耐し気を遣ってくれたこと」
「家族に対して日ごろ言えないことを全部言ったこと。家族もよく受け止めて反省し、改める努力をしてくれたこと」
*上のアンケート結果は「自立への苦闘」 教文館 全国統一教会被害者家族の会編より引用させてい ただきました。
自分が大切にしているものをすべて否定されてしまったら、誰しも殻に閉じこもってしまいます。
「意地」に捉われるということです。
「カルトの言い分の60%は正論である」
これは師から教わった言葉です。
カルトの教義の残り40%には強烈な毒性があり、この毒は信者を社会生活から孤立させ、自らを傷つけてさせていきます。
当然ここの部分は否定しなければなりません。
しかし、40%の毒性を否定するためには、60%の「正論」を肯定するのもひとつの方法かもしれません。
現実社会とユートピアの綱引き
カルト教団の教学をいろいろ調べてみると、ほとんどの教団で現実社会のアンチテーゼを謳いあげていることがわかります。
「この社会の人間たちはエゴにまみれていて、堕落している。。人を蹴落とすことばかり考えている」
「やりがいのある仕事をして成果をあげたり、お金を稼いだだりしても、その喜びは一刻のものにすぎない。人は死すれば、仕事の成果などすべて無に帰してしまう。この世の喜びはすべて虚しいものだ。」
「恋愛して伴侶を得たとしても、老いというものは確実にやってくる。そして、死すれば、別れは必然である。今は楽しくとも、これから後に『死別』という大きな苦しみが待っているのだ。」
「およそ現世の人の喜びはかりそめのものにすぎない。現世での喜びを追及するよりも、永遠に崩れない『絶対的な幸福』を求めていったほうがいい」」
確かにこの世は不条理なことばかりです。許しがたい犯罪も、救いがたい悲しいできごともたくさんありますね。
でも、それだけでしょうか?
私たちが実際に生きている社会の中にも宝はありませんか?
私たちの日々の暮らしの中にも、「人のあたたかさ」とか「生きる喜び」が、カルトの語るユートピアに負けない宝があるのではないですか?
結局のところ、カルトメンバーとの話し合いとは彼らの語る「カルト社会のユートピア」と「生の現実社会を生きる我々の価値観」との綱引きなのです。
「確かにこの社会には様々な問題があるよね。でもそれだけではないよ。現世の中にも『素晴らしいもの』、『価値のあるものがあるよ』ということを語りかけていかねばなりません。
そして、この綱引きに勝てたときがメンバーが脱会するときなのです。
カルトメンバーに語るべき「現世の価値」はきっと皆様が知っておられると思います。特別な体験などなくとも、日常生活の営みの中にきっと眠っているはずです。