カルト宗教の勧誘テクニック パート2〜生きる意味を教えます
アレフ(旧オウム真理教)の教説を聞いたことがあります。こんな話です。
「素敵な恋人が欲しいなあ」と思っている人がいます。
その人は思いがかなって可愛い恋人ができたのですが、これで幸せを掴んだと言えるのでしょうか?
だって、どちらかが浮気をするかもしれないし・・・・
そのうちお互いに飽きてしまうかもしれないし・・・・
お互いに不信感をもつときがあるかもしれないし・・・・
たとえめでたく結婚しても、すぐに老いさばらえてしまうし・・・・
最終的に死んだら別れなければいけないし・・・・・
すべては変化するから最後には苦しみが待っている。・・・・・
私たちはひとつの喜びを手にすると、その喜びが末永く続くことを願うものである。
しかしこの世のすべての物質は有限であるし、すべての現象は常に変化し続けている。
この無常(常に変化していく世界)に生き続ける限り、必ずや苦しみがやってくるのです。
一見説得力のある話に聞こえます。
このあと「永遠に続く幸福の世界」を探しに行こうと続くのですが、彼らの言説に賛同してついていくと待っているのは「アレフでの修行」です。
その2 カルトの「六」戒
地下鉄サリン事件まで起こしてしまった、あのオウム。
その信者がすべて凶悪な人格の持ち主だったのかというと決してそんなことはありません。
ほとんどの信者が、優しく良心的で、真剣な生き方を求めていたのだと思います。
「よりよい生き方を追及したい」
「社会のために役にたてる自分でありたい」
こんな動機で入信してきたひとたちが大多数でした。
では、なぜ皆「オウムの教学」を信じてしまったのでしょう。
彼らが愚かであったということでもないと思います。
オウムの元信徒は思慮と分別を備えた人たちでした。
「カルトの教義は8割が正しい」ということを聞いたことがあります。
仏教やキリスト教の経典を土台にして作られている以上、他人に対しての思いやりや日常生活を送るうえでのモラルを強調し、実践している面もあるのです。
そんな「清らかさ」とか「人生にまともに向かい合う姿勢」とかは本物であり、それは非常に魅力的に見えることがあります。
オウムの元信者を魅了していったのは、教団が掲げる「教義」のうちのまっとうな『8割』の部分でした。
これだけなら、良かった。
しかしオウムの教学の残り2割に強烈な毒性がはらまれていたのでした。
「迷える者の魂の救済のためなら、殺人も許される」
オウム真理教の教祖、浅原彰晃の教説です
「ここにAさんがいたとする。Aさんは今まで功徳を積んでいたので、このままだと天界に生まれ変われる。しかしAさんには魔が生じてきてね、このあと地獄に落ちるぐらいの悪行を積んでしまう。
では次にオウムで修業した(成就者)がいたとしましょう。この成就者がAさんを殺した。Aさんはどこに生まれ変わりますか。天界に参ります。
もしもだよ、生かしておくと悪行を積み地獄に落ちてしまう。成就者のしたことは殺生ですか。人間からみれば殺人。しかしマハーナヤ(大乗)の考え方が背景にあるならば、これは立派な善行になるんです。」 *「霊・因縁・たたり」 柿田睦夫著 かもがわ出版より引用させていただきました。
これらの2割の毒性が教団の教えのまっとうな部分を、残酷で非人間的な教学に染めていつてしまったのです。
仏教の教えのなかに「五戒」というものがあります。
人として生きるうえで、犯してはないこと行動をいましめとして5つあげてあるのです。
1、不殺生 (生き物を殺してはならない)
2、不偸盗 (盗みをしてはならない)
3、不妄語 (嘘をついてはならない)
4、不邪淫 (不道徳なセックスをしてはならない)
5、不飲酒 (酒を飲みすぎてはいけない)
上の5つの戒(いましめ)は社会生活を送るうえで、モラルとして認められ通用しているものででょう。
ところが、カルトと言われる教団は上の五戒に付け足されているものがあるのです。
五戒ならぬ六戒なんですね。
1、不殺生 (生き物を殺してはならない)
2、不偸盗 (盗みをしてはならない)
3、不妄語 (嘘をついてはならない)
4、不邪淫 (不道徳なセックスをしてはならない)
5、不飲酒 (酒を飲みすぎてはいけない)
6、教義を疑う (教団の教えや行動に疑問をもってはいけない。教団を疑ったら罰があたり、教団を脱会したら地獄に堕ちる)
至極まともな五戒に、六番目の毒性のある戒が付け足されているため、教学そのものが毒性のあるものに変えられてしまっているのがわかりますか?
カルトの教学はおおむねこうした構造になっているのです。
また、教学の多くは自分自身がそれまで抱えてきた葛藤や、家族間の問題の原因を理路整然と説明したり、、解決の方法を明快に指し示すすることも魅力のひとつなのだと思います。
元信者の証言その2 仏教系教団
人間って人が知らない特別なものを知っているってのは気持ちいいじゃないですか。周囲の人は地獄行きの人生を送っているのに、自分たちだけは仏のご加護に救われてね。本当の幸福に至る道を知っているんだ!みたいな高揚感があるんですよね。
だから世の中の人はかわいそうだなと。家が欲しいとか車が欲しいとか、そんなもののためにあくせく働いて。僕らは永遠に変わらない幸せを求めているんだ!って思っていました。
勧誘してくる宗教団体のすべてが悪質なものだとはいいません。
ただし、入信を決める前にその教団の教学や行動を十分すぎるくらいに調べてみることは必要だと思います。
・ネット情報を確認すること(すべてがいい加減な情報とはかぎりません)
・家族や学生相談室の意見を聞いてみること。
・疑問に感じたことは納得できるまで、問い合わせること
(いい人の言うことだから大丈夫ということはない)
入信するのはこれらの作業のあとでも決して遅くはありません。
その3 臨終説法〜恐怖感の刷り込み
人は死んだらどうなるのか?どこへ行くのか?
あたりまえの話ですが、人は必ず死にます。
「人は死ぬ。必ず死ぬ」
こう説法したのはオウム真理教の麻原彰晃でした。
あるサークルの話です。
夜な夜な、大学の先輩から講義が続きます。
ある僧侶が「死の宣告」をうけた子供の母親に頼まれて因果の道理を説きます。
「よい種を撒けばよい結果を生むよ。坊や、これまでどんなことをしてきたんだい?」
「僕は悪いことばかりしてきた。カエルに爆竹を入れて爆発させたり、たくさんの生き物を殺してきた」
「それじゃ坊やは悪い結果を生むよ」
僧侶は暗い顔をして呟きます。
母親はそんな残酷なことを言わないで、「念仏を唱えたら極楽に行けると言ってやってください!」と叫びます。
子供は唱え始めます。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・」
そのあと子供はおそるおそる尋ねます。
「僕は死んだらどうなるの・・・」
僧侶は暗い眼をして押し黙ってしまいました。
「カルトの正体」 別冊宝島編集部編 宝島社文庫
高橋繁行氏の論考 P87からP88を一部改編して引用させていただきました。
この話は話術に長けた講師が話すと非常に生々しいリアリティを生むようです。
「この説法の中の子供と自分の最悪感がシンクロしてしまった」と講義を聞いた学生は語っています。
マインドコントロールのテクニックにはいろいろなものがあります。
この中でも「罪悪感の増幅」と「恐怖心の拡大」はテクニックの根幹となるものです。
「自分は罪を犯した」
↓
「自分は死後に救いはない(地獄行きだ)」
↓
「救われるにはこの『教え』にすがるしかない」という論法なのですね。
誰でも死ぬのは怖いことです。「死んだあと地獄に行く」と決めつけられることも恐ろしいことです。
しかし普段は「死」を忘れて生きています。逆に言えば「意識していないからこそ日常を生きていけるのです」
「死の恐怖」を無理やり意識化され、「死の恐怖」を背負って生きていかねばならない人生がいかに辛いものか想像してみてください。
世の中には「不治の病」に侵されたひとたちがたくさんいます。そんな人たちの苦しみにをどう緩和するか、癒せるかに人々は努力を重ねてきました。
しかし、カルトの場合は人の心にある「死の恐怖」を拡大させ、増幅させ、「死の恐怖」を道具として人の心を隷属させ、そして食い荒らしていくのです。
ここがカルトの悪なのだと思います。
人は生きていくうえでいろいろな罪を負っています。
・小学生のころ、クラスの「いじめ」に加担していた。
・受験勉強のとき、クラスメートの成績不振を内心喜んでしまった。
・口うるさい母親に、つい声を荒げて怒鳴ってしまつた。
誰にでも「罪悪感」のタネはあります。
罪深い私たちが人としてどう生きてけばいいのか、それは重い問いであり一朝一夕に答えが出るものでもありません。
ただし、「この教えに従っていれば救われる」といったインスタントなものではないことは確かだと思います。
その4 「神秘体験」を疑え
脱会した元カルト信者から、「教団での修行中に尋常ならない神秘体験をした」と語られることがあります。
・自分の体が光に包まれて、金色に輝きはじめた。
・身体がほてりはじめて、熱い塊が尾てい骨から背骨を伝って、上がってくのを感じた。
・教団グッズの訪問販売中、神様が自分に語りかけてくるのを感じた。
・夜空を眺めていたら、たくさんの星が一斉に動き始めた。
・日々の生活の中での鬱々とした気分が急に晴れやかになり、すっきりとした、とても晴れやかな気持ちになれる。
日常生活の中では決して体験できない体験・・・
見えるはずのものが見えてしまったり、感じるはずのないものが感じられたりする体験・・・・
こうした「神秘体験」の「心地よさ」や「感動の体験」は言葉にして表現できないほどいいものだそうです。
決して他人には伝えることができないのだけれど、確かに体感できる極上の至福の体験は人を虜にします。
また、こうした「神秘体験」は教団への「信仰の確信」に繋がったりします。「素晴らしい体験をしたのだから、この教団の教えは本物だ」というわけです。
誰に何を言われようと、「自分が実際に体験したもの」であれば「あの教団はいろいろな問題を引き起こしているよ」と言う声にも耳を貸す気にはならないでしょうし、教団の怪しげな言動や教学も疑う気にもならないのでしょう。
例えばの話です。
「地獄が本当にあるのかどうか」を議論するとします。
これはなかなか結着のつかない議論だと思います。
「地獄がある」ということは科学的には証明できません。
しかし「地獄がない」ということも科学的には証明できないのです。
(不思議なものでこういう言い方をされると『地獄がある』ということの話が正しく感じてしまうことがあるようです)
しかしです。
「地獄を実際に見た」という体験をしてしまえば、「地獄がある」という話を信じるしかありません。
実際に地獄を体験してしまったのですから。
いわゆる「体験」とか「生のリアリティ」は人が物事を判断するときに大きな影響を及ぼします。
しかしちょっと待ってください。
これは、「体験」や「生のリアリティ」を偽装し操作すれば、他人の判断を操作することが可能であるとも言えます。
つまり、「地獄を見た」という体験を偽装すれば、「地獄がある」ということを信じさせることができるということでもあります。
自分が実際に体験したことを疑うことは難しいことです。
そうであるが故に、「体験」のみに依拠して物事を判断することも危険なことなのです。
オウム真理教の元出家信者たちも、「修行」の過程でさまざまな神秘体験を経験していました。
白い光が見えたり、えも言われる恍惚感に浸ったり、五体投地を繰りかすなかで、体が自分の意思とは無関係に動いたり・・・
このオウムでの神秘体験は、精神医学で比較的簡単に説明することができる「異常体験」にすぎないのだそうです。
呼吸とイメージを操作することで、人は比較的簡単に意識をトランス状態に持ち込むことができます。
トランス状態になると「光が見えたり」「体が勝手に動いたり」という神秘体験を経験するそうです。
多くの若者たちが「偽装された神秘体験」を経験することで、今まで培ってきた世界観を突き崩され、教祖の説く疑似ユートピアを信じ込まされた挙句、非合法活動に従事させられていったのがあのオウムの事件でした。
「科学では説明できない目に見えない世界がある」とか「神秘体験を経験した」と言う人は確かにいると思います。
「あなたが体験したこと」を否定することは私にはできません。
ただし、「あなたが体験した神秘体験」はあなたの個人的体験であって、普遍的なものではないのですし、ましてや「真理である」とは言えないものではないでしょうか。
あなたが体験したからと言って、皆が体験できるものではないのですから。
そして、「神秘体験を経験した」からといって、それだけで人を救えたり、世界を変革していけるわけでも当然ありません。
神秘体験はあくまでも「個人的体験」にすぎないのです。
そのあたりとわきまえることは非常に大切だと思います。
カルト宗教の勧誘テクニック パート2
その6 文献奴隷(または引用ドレイ)
現役信者の方々に質問です。
「なぜ自分の教団に入信すると救われるのか?」
「自分の教団がなぜ唯一真実の教えであるのか?」
これを説明することができますか?
教団についての疑問について、おそらくはあなたの先輩はこんな回答をするのでしょう。
「聖書の××ページにこう書いてある」
とか
「お釈迦さまの○○という文献の一節にこう書いてある」
なんて、文献の引用を持ってしか返答することしかできないなんてことはありませんか?
「こう聞かれたら、この文献を引用」「ああ聞かれたら、あの文献を引用」みたいに。
「やってみればわかる」とか「勉強を続けていけばわかる」と言われることもあるようです。
では「やっていれば」いつごろわかるというのでしょうか?
所謂カルト教団の人たちの話しをよく聞いていると「自分の頭で考えて、内容を吟味してそれから答える」というよりも「無条件反射に近い反応」で応答しているんじゃないかと思うことがよくあります。
法学や経済学などの人文科学の分野には「文献奴隷(ぶんけんどれい)」という言葉があります。自分自身で資料を調べたり、実地調査をすることを放棄し、他人の研究成果の引用のみで自説を展開する人を指す蔑称です。
いわゆるカルト教団の人たちの話を聞いていると、「まさに文献奴隷だなあ」なんて思います。数百年前に書かれた文献を、そのまま引用し自分の意見としてすり替えてしまうことがあたりまえのように繰り返されているのです。
いわゆる教義論争も、よくよく見れば「引用合戦」に終始していることが多いのです。
「お釈迦さまの書いたAという文献にはこう書いてある。だからオレの教団が正しい!」
「そのAという文献は偽物だ、お釈迦さまのBという文献にはこう書いてあるからオレが正しい!」
所謂教義論争なんて、内実はこんなもんです。
「悪魔も聖書を引用する。ただし文脈を無視して」という言葉があるそうです。
(この一文も引用ですが(^_^;))
前後の文脈さえ無視するなら、聖書を引きながらどんな思想でも自分たちに都合よく捏造でいるという意味だそうですね。
なるほど、文脈を無視して手前勝手に引用していまえば、書き手の意思を捻じ曲げてしまうことは簡単なことですし、歴史的宗教の名を借りて、「聖書にはこうある」とか「釈迦がこういった」というようなことを言ってしまえば「権威」に弱い人間の心理をうまくつき、教義の説得にも役にたつのかもしれません。
今現在、教団で活動しているあなた。
「なぜ自分の教団に入信していると救われるのか?」
「自分の教団の教学がなぜ唯一真実の教えであるのか?」
それを自分のことばで説明できますか?
ただ単純に他人の意見や文献からの引用を繰り返しているだけではないですか?
もしも自分自身の言葉で教学の正しさを語ることができないのであれば、少なくともあなたは人を自分の教団に勧誘することをやめるべきです。
ひとつの教団に勧誘され、入信することは一人の人間の人生を変えてしまうことです。
「自分自身がやっていることを自分自身で説明できない」のにいわれるままに人を勧誘するのは道義に著しく反している、と思うのですが。
「何かおかしいな」と感じた時には
自分だけの力で解決しようとせずに、第三者に相談することが大切です。
ご自身の大学の学生相談室を利用するとよいでしょう。
きっと力になってくれるはずです。
またご両親に相談されてもよいと思います。
絶対に一人で抱え込まないこと!信頼できる大人に相談しましょう。
参考文献
このコラムは以下の著作から多くのものを学ばせていただき書かせていただいています。皆様もご一読をお薦めします。
「カルトからの回復」 櫻井義秀編 北海道大学出版会
「カルト」の正体 別冊宝島編集部編 宝島社文庫
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